馬車道案内

京浜不動産鑑定所がある横浜の関内地区は明治の開港場でした。
文明開化は関内を通して日本中に広まったのです。
馬車道はその頃から、関内地区のメインストリートでした。
通り沿いには、「○○発祥の地」という記念碑がいたるところにあります。
通り全体が博物館のようです。

馬車道案内

馬車道を港に向かって歩いていくと「万国通り」に出ます。万国橋を渡って右へ行けば赤レンガの倉庫、左へ曲がれば、ランドマークタワーのあるみなとみらい21。
みなとみらい21地区は世界に開かれた日本の情報発信基地です。
平成の開港場なのです。
今日は、 明治の開港場と平成の開港場をまとめてご案内します。

明治の開港場 関内 〜明治のみなとみらい〜

「横浜」という地名

横浜の開港は1859年(安政6年)もうすぐ150年になります。
開港直前の横浜村は人口100人ほどの寒村でした。
入り江の口をふさぐように伸びる砂州の上の村で、長くのびる砂浜が入り江の方から見ると浜が横たわっているように見えるので横浜と呼んだようです。

関内は一種の出島です

幕府はこの砂州を、外国人を閉じ込め国民の目から隔離するには格好の場所と考えたようです。幕府はこれでもまだ不十分とばかり、砂洲の根元に水路を開いて切り離し、出島にしてしまいました。この水路は元町と関内地区の間に今でもあって堀川といいますが、名前のつけ方は安易です。

自然の要害

周りを運河で囲んで、外部と出島との連絡は吉田橋一本に限りました。吉田橋は有料橋で橋の袂に関所がありました。今の関内地区は関所の内側だから関内という地名になったのです。

弁天神社

砂州の先端に、水の神弁天様が祭られていました。開港のころは広大な境内をもつ弁天神社でしたが、今では、弁天橋に名を残すのみです。境内だった所に海の守りの第三管区海上保安本部があるのは、偶然とは思えません。

井伊直弼と関内

明治42年、彦根藩士たちは海を見下ろす山の上(戸部村の鷹巣山)に、井伊掃部守(かもんのかみ)直弼の銅像を建てました。今ある大きくて立派な銅像は昭和29年に再建されたものです。銅像には、“開国を決断したのは井伊直弼。横浜を開港場に決めたのも井伊直弼。”という同郷の藩士たちの思いが込められています。いつのころからかこの公園を掃部山公園と呼ぶようになりました。
この丘の上から掃部守はいつも堂々とした姿で関内を見下ろしています。震災も戦災も戦後の復興もその後の横浜の大躍進も見続けてきました。今はみなとみらい21地区の成長を見守ってくれています。

伊勢山皇大神宮

掃部山公園と切通しをはさんで向かい合う丘の上に、横浜にはちょっと似合わないのではないかと思うような荘厳な神社があります。伊勢山皇大神宮です。
江戸幕府が伊勢神宮から分けて開港場の守りとしたものですが、これは、信州諏訪大社を長崎にお招きして、長崎の出島の守りをお願いしたのと同じ発想です。時を隔て人は同じことを考えるようです。

ペリー上陸の地

今の県庁のところにかつて運上所という江戸幕府の役所がありました。この付近がペリー上陸の場所です。噴水のある広場になっていて「開港ひろば」と呼んでいます。その隣が昔のイギリス領事館、今は横浜開港資料館になっています。

横浜公園

横浜ベイスターズの球場がある横浜公園は、開港のころは埋め立て半ばの湿地でした。そこを水路で囲ってしばらくは廓(遊郭)になっていましたが、関外に移されました。跡地は西洋式公園になりました。ここは洋式公園の発祥の地とされています。

関内地区の町名

関内地区の日本人の居住区は海岸に平行に海岸通・北仲通・本町通・南仲通・弁天通の五筋の道がつくられました。この道に沿って売込商・引取商とよばれる貿易商が軒を連ねていたのです。
ここより山側の街づくりは少し後回しにされました。今も残る相生、住吉、常盤、尾上の各町名は謡曲から採ったのです。とってつけたような人工的な町名は同じころ街がつくられた函館と似ています。

馬車道から万国橋まで 発祥の地めぐり

馬車道案内

① 日本初の鉄(カネ)の橋

田橋は日本初の鉄製の橋ということになっているが、実は、日本最初の鉄橋は長崎のくろがね橋(1868年)。
ブラントン設計の吉田橋はその翌年に架けられた日本で2番目の鉄橋である。

② 近代的都市整備を身をもって伝えた 元祖ブラントン

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1868(明治元)年来日した英国人技師ブラントンは、1869年に吉田橋の鉄橋への架け替えを成しとげ、全国各地の28基の灯台の建設、航路標識等の設置や、1,869(明治2)年から1873年にかけての関内にあった沼地の埋め立て、1874(明治7) 年から1876年にかけての横浜公園の造園、横浜公園から海岸にのびる中央大通り周辺の整備や下水道の敷設、街路の舗装など、明治前期横浜の都市整備に大きな足跡を残した。
ブラントンの手がけた事業にはこのほかに次のようなものがある。
居留地測量、電信敷設、吉田橋架設、下水道整備、居留地内マガダム舗装道路、街路照明計画、築港計画、居留地宅地造成計画、日本大通の設計・施工、横浜公園の設計・施工
ブラントンはまさしく日本の都市計画事業の先駆者である。

③ 近代街路樹発祥の地

馬車道案内 馬車道案内

街路樹が日本で最初に植えられたのは横浜の馬車道であり、柳と松の並木であった。 馬車道の入口には「1884(明治17)年近代街路樹発祥之地」の碑が建てられている。

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④ 本物の乗り合い馬車の展示

日本人による最初の馬車会社は1869(明治2)年5月に開業した成駒屋である。吉田橋脇の発着場から東京・新橋まで乗り合い馬車を走らせた。同社は開業当時、馬車25台、馬60頭を置いて営業したという。
それまで徒歩でおよそ10時間、同時期に普及しはじめた人力車でも6時間以上かかった東京〜横浜間を、乗合馬車は4時間で走った。料金は1人3円。しかし 1872(明治5)年、新橋〜横浜間に鉄道が開通すると、同じ路線を走っていた乗り合い馬車は次第に姿を消していった。

⑤ アイスクリーム発祥の地には、なぜか太陽の母子像

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日本初の氷菓販売店を開業したのは、町田房蔵という人物である。
彼は1869(明治2)年に、横浜の馬車道通常盤町5丁目に氷水店を開き、氷菓子とアイスクリームを売り出したものの売れ行きは、はかばかしくなかった。
翌年の伊勢山皇大神宮の大祭のときに開いた店が大好評で、その後は少しずつ売れるようになった。

⑥ 苦労ばかりで儲からなかった ガス灯 事業

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諸外国の商社からガス灯建設の申請が出されたが、当時の県令(知事)だった井関盛良は外国に営業権を独占されることを恐れ、高島嘉右衛門ら横浜の資産家9人に会社(日本社中)の設立を促した。
途中、資金の関係から共同経営者は次々と去り、高島嘉右衛門ひとりの事業となったが、翌年、現在の市立本町小学校の場所にガス工場建設がはじまり、1872(明治5)年9月29日、馬車道から大江橋、本町通りにかけて、10数基(300基という記述も)の日本最初のガス灯に点火された。
青白い火で夜の街を照らすガス灯が、開化ヨコハマの名物となった。
その後、日本社中(横浜瓦斯燈会社)は、ガス代の徴収がうまくいかず経営不振となり1875(明治8)年に公有のガス局に引き継がれた。

⑦ 牛なべを始めたのは住吉町5丁目の伊勢熊

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牛鍋屋が誕生したのは1862(文久2)年。関内住吉町5丁目あたりの居酒屋の主人伊勢熊という人が開業したものである。
妻が反対するので店を半分に仕切り、その片方で営業をはじめたところ大繁盛となり、すぐに居酒屋の売上をしのいだという。
1871(明治4)年の『新聞雑誌』には「外国人の説に、日本人は性質すべて智巧なれども、根気甚だ乏し。これ肉食せざるによれり」と、肉食の効能が説かれている。
この頃には肉食は、日本人の間では、西洋に追いつき追い越すために奨励すべき食べ物になっていた。

⑧ 日本初の写真館経営 下岡蓮杖

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日本で2番目のプロカメラマンである下岡蓮杖は、横浜へ1860年にやってきた。アメリカ人雑貨商ショイヤーのもとで働き、そこを訪れるアメリカ人カメラマン・ウンシンと知り合い、写真術を学んだという。
蓮杖は1862(文久2) 年頃、野下に小さな写真館を開業した。その後、1867(慶応3) 年に馬車道に写真館を新築し、翌明治元年には元町にも支店を出している。

⑨ 外側を残してリニューアル日本火災海上ビル

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旧横浜正金銀行の隣にある石造の建物が、旧川﨑銀行、今の日本火災海上の建物である。正金銀行に負けないものをと、川﨑財閥が金に糸目をつけずに作ったという。
昭和63年に取り壊されかかったが、アーバンデザイン的な見地から、外壁だけを、旧来のままに保存することになり、旧横浜正金銀行と並んで、馬車道にかつての横浜の姿を残している。

⑩ 銀行の始まり横浜正金銀行(神奈川県立歴史博物館)

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明治37(1904)年、横浜正金銀行本店として竣工されたドイツ・ルネッサンス様式の建物。
関東大震災、太平洋戦争の空襲にも耐えた。
博物館としては昭和42年の開館。
コリント式の円柱、つる草の柱頭飾りがいい。ドーム部分は関東大震災で失われたため、復元されたものである。国の重要文化財に指定されている。

⑪ 記念碑はどこに行った 新聞発祥の地

日本で初めての日刊邦字新聞は1870(明治3)年に横浜活版社から創刊された『横浜毎日新聞』である。鉛活字を使用し、洋紙両面刷りの画期的なものであった。『横浜毎日新聞』は1879(明治12)年に東京に移転し『東京横浜毎日新聞』と改称。さらにその後『毎日新聞』『東京毎日新聞』と改称して、 1941(昭和16)年まで発行を続けた。ちなみに現在の『毎日新聞』とは無関係である。
以前は確かに記念碑があったのだが今は取り払われている。

⑫ 生糸輸出のメッカだった生糸検査所もリニューアル

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開港後まもなく日本からの輸出品として海外の注目を集めたのが、生糸であった。およそ200軒の日本人商店のうち90軒は生糸売り込み商であり、急増する輸出の中で、その8割を生糸が占めていた。まさに生糸は横浜発展の立役者だったのである。 しかし戦後になると、欧米でナイロンや化学繊維が流行。さらに途上国の生糸に押されるなどの悪条件が重なり、輸出品ベストテンから姿を消していった。
いまでは、旧横浜生糸検査所ビルが、往時の生糸貿易の隆盛を偲ばせている。この建物はリニューアルされて、今では国の出先機関が入る横浜合同庁舎となっている。

⑬ みんな万国橋を渡って世界へ出て行った。

海外渡航

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開国後、日本人がはじめて海外に渡ったのは、横浜開港の翌年(1860年)のこと。新見豊前守正興、村垣淡路守範正ら総勢77名の幕府の遺米使節一行が、アメリカ艦ポーハタン号に乗り込み横浜港を出航している。その2年前に横浜沖で停泊中のポーハタン号上で調印された日米修好通商条約の批准書交換が渡航の目的である。一行はその年の3月に、アメリカのブキャナン大統領と会見をしている。
この時に随行船として同行したのが、勝海舟が艦長を務めていた咸臨丸。これが、日本人の手による最初の太平洋横断となった。ちなみに福沢諭吉も、提督(木村摂津守喜毅)の従者として乗船していた。
海外留学生の第一号は1862(文久2)年に幕府からオランダへ派遣された榎本武揚、津田真道、西周、伊東玄伯ら。咸臨丸で長崎へ行き、オランダ船に乗り換えて渡航している。その翌年、長州藩の留学生として井上馨、伊藤博文らも横浜からイギリスヘ向けて密出国している。
鎖国政策を廃止し、日本人の海外渡航を幕府が許したのは1866(慶応2)年のことで、正式な旅券が整うと、先を争うように横浜港を後にしたのは芸人たちであった。足芸の浜上掟吉一座、手品と綱渡りの隅田川浪五郎一座、独楽廻しの松井源水一座など、数多くの芸人が欧米での興行に旅立っている。

移民

明治時代以降、多くの人々が新天地を求めて移民をした。日本での移民開始は1868(明治元)年。日本人42人を乗せたスワロー号がグアムに向け横浜港から出航した。しかしこの移民は成功したとはいいがたく、3年後には全員の消息が途絶えてしまった。

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⑭ 立派な柱の日本郵船 横浜支店

昭和11年完成 和田順顕設計
鉄筋コンクリート造三階建
建物正面のコロネードと呼ばれる円柱が50mにも及ぶのが見もの。
この一軒先の奥に、日本郵船歴史資料館がある。

⑮ リニューアルが終って、 市民に開放された赤レンガ倉庫

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明治40年11月着工、同44年5月竣工
構造はれんが造り3階(一部4階)建て。耐震、耐火を考慮して大量の鉄による補強がなされている。
建物の大きさは、1号と2号の二つがあって2号が大きい。
1号も当初は2号とほぼ同じ大きさであったが、震災復旧工事の際約半分が取り壊された。
平成14年4月12日リニューアルを済ませて市民に開放されるようになった。
1階の床は、建築当時の輸送手段であった荷馬車に適するように、プラットホームを設けて高床にしてあったが、リニューアル後は周辺を盛土して、高さを半分以下にしてある。

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